東京地方裁判所 平成3年(ワ)4622号 判決 1993年3月19日
原告
ジョン・イー・ペリー
右訴訟代理人弁護士
更田義彦
被告
バンク・インドスエズ
日本における代表者
渡邉昌俊
右訴訟代理人弁護士
國生一彦
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
一 請求
被告は原告に対し、金四八八万〇八八〇円及びこれに対する平成三年一月一日以降支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 事案の概要
1 争いのない事実
(1) 原告はアメリカ合衆国の国籍を有する者であり、被告はフランス共和国の法律によって設立され、銀行業等を目的として日本に営業所を有する外国法人である。
(2) 原告と被告は、昭和六〇年一月一日、雇用契約を締結(以下「本件契約」という。)し、以降原告は被告において平成二年一〇月三一日自己都合により退職するまで五年一〇か月の間勤務した。
(3) 被告の就業規則及び退職年金規程によれば、被告退職年金制度加入資格のある従業員が勤続年数五年一〇か月で自己都合により退職した場合、その従業員に対し退職時基準給与に四・三七五を乗じた金額の退職一時金を支払うことが規定されている。
なお、右退職年金規程は昭和六一年一一月一日から施行されたもので、右施行に伴い、従前の就業規則第一二章五四条以下の退職手当に関する規定が「従業員が退職した際に支給する退職年金については別に定める退職年金規程の定めるところによる。」と改訂されたものである。
(4) 原告は被告に対し、平成二年一二月一〇日付け通知書(同月一一日到達)をもって本件退職一時金を同年一二月三一日限り支払うよう催告した。
2 本件は原告が被告に対し、右就業規則及び退職年金規程に基づく退職一時金を請求している事案であるところ、原告及び被告の主張はそれぞれ次のとおりである。
(1) 被告の主張
<1> 原告は被告と本件契約を締結するに際し、個別に作成された契約書(以下「本件契約書」という。)により、被告が原告に対して退職手当支払義務を負わないことにつき合意している。すなわち、本件契約書(<証拠略>)には、原告または被告が本件契約を解約するにあたり、「被告は原告に対して何らの『indemnity』の支払義務を負わない(原告の退職または死亡の場合を含む。)」旨の規定があるところ、ここでいう退職の場合の「indemnity」とは退職手当のことである。
<2> 被告就業規則第三〇条によれば、定額月額現金報酬は退職金該当給与部分及び退職金非該当給与部分で構成されているのであるから、仮に被告が原告に対し退職一時金を支払う義務があるとしても、原告の退職時基準給与額は定額月額現金報酬のうち退職金該当給与部分に相当する金額、すなわち賃金台帳(<証拠略>)上「ベース」と表示された欄に記載されるべき金額であり、右金額は五五万九二七四円である。
なお、原告の賃金台帳上、退職金該当給与部分が一一一万五八八五円、退職金非該当給与部分(賃金台帳上「ノンベース」と表示された欄に記載されている金額)が〇円と記載されているのは、被告の就業規則及び退職年金規程が原告に適用されないことを前提としている。
(2) 原告の主張
<1> 被告は原告を日本営業所における現地雇用員として雇用したもので、原告は被告が退職手当支払義務を負わないエクスパットや被告本店派遣のフランス人スタッフではなく、被告の高級職員にすぎないものであるから、被告退職年金制度が適用される。
英語における「indemnity」の一般的な意味は「損害に対する補償」であるから、本件契約書における「indemnity」もそのような意味で用いられているというべきである。従って、本件契約書において被告と原告間で合意されたのは、被告には退職に伴い原告に生じた損失または損害を補填する義務がないということであって、被告に退職手当の支払義務がないことを確認したわけではない。
<2> 原告の退職時基準給与額は、原告の賃金台帳上ベースと表示された欄に記載されている一一一万五八八五円である。
三 当裁判所の判断
1 「indemnity」の本来的な意味は、損失補償、すなわち他人が被った、あるいは将来被るであろう損害を填補することである(<証拠略>)。しかしながら、被告はフランスに本店を有する法人であり、フランス語における「indemnite」は補償金という意味のほかに手当という意味も有していること(<証拠略>)、原告はペンシルバニア州における弁護士資格を有する法律家であるとともに二年間フランスに滞在しフランス語についても相当程度理解することのできる人物であること(<証拠略>)及び日本公認会計士協会編集の雑誌に掲載されている国際会計基準改善起草委員会(開催地ロンドン)の報告中において、「Employment Ter-mination Indemnities」が「離職手当」の意味で用いられていること(<証拠略>)等の事情を考えあわせると、本件契約書が英文で作成されているからといって、直ちに本件契約書における「indemnity」が損失補償ないし補償金の意味で用いられていたと断定することはできず、結局のところ、本件契約内容、被告の就業規則や退職年金規程、原告の職務内容、労働条件等から、本件契約書における「indemnity」がどのような意味で用いられていたのかを推認するほかない。
2 わが国における雇用契約において使用者が労働者に対して退職金支払義務を負うか否かは重要な問題であり、特に本件契約のように比較的高額の報酬が定められている場合には退職金の金額も雇用期間の割に高額になることが予想されるのであるから、原告被告間において個別に本件契約書を作成し、かつ右契約書中に「雇用契約を解約する場合」との項を設けている(<証拠略>)にもかかわらず、右項において退職金支払義務の存否について規定しないということは、被告の就業規則や退職年金規程上被告の原告に対する退職手当支払義務の存否が一義的に明確である等の事情がない限り、不自然であるといわざるを得ない。
3 そこで、被告の就業規則や退職年金規程、原告の職務内容、労働条件等を検討するに、(証拠・人証略)及び弁論の全趣旨によれば、<1>被告就業規則第二条三項は、右規則中退職金に関する条項に記載された特典は特別契約(嘱託)従業員に対しては適用されない旨規定しており、また、退職年金規程第二条は、退職年金制度が「コンサルタント」には適用されない旨規定していること、<2>原告は米国において弁護士としての資格を有する者であり、原告の被告における職務は被告の遂行する事業につき法律的観点から検討し、必要な助言をすることであったこと、<3>被告就業規則上賞与に関する条項も特別契約(嘱託)従業員に対しては適用されない旨定められていたところ、本件契約において被告は原告に対して賞与の支払義務を負っていないことが確認されていること(もっとも、原告は平成元年度において一〇〇万円の賞与を受領しているが、右賞与は原告被告間の個別の合意により報酬とは別に支払われたものである。)、<4>本件契約書上原告が被告から受領すべき報酬は、給料のほか交通費、住居費、米国への年次旅行費及び社会保険料として年間一二〇〇万円とされていたが、昭和六二年度からは年額一五〇〇万円とすることが原告及び被告間で合意され、平成元年度における報酬総額は約一八五四万円(うち給与は約一一七六万円、社会保険料は約七〇万円、住居費は約五六七万円、米国への旅費は四〇万円)、平成二年度(一〇月まで)の報酬は約二三〇〇万円(うち給与は約一四〇三万円、社会保険料は約六八万円、住居手当・米国への旅費その他は約八三一万円)であり、原告が五年一〇か月の在職中被告から支払を受けた報酬総額は約九九〇〇万円(うち給与は約六四九七万円)であって、右金額は勤続三〇年程度の日本人高級職員と同格ないしそれを上回るものであったこと、<5>被告が退職手当支払義務を負う従業員の定額月額現金報酬は退職金該当給与部分及び退職金非該当給与部分で構成され、賃金台帳上退職金該当給与部分はベースと表示された欄に、退職金非該当給与部分はノンベースと表示された欄にそれぞれ記載されることとなっているところ、原告の定額月額現金報酬は、被告が退職手当支払義務を負わないエクスパットや被告本店派遣のフランス人スタッフの場合と同様、すべて賃金台帳上ベースと表示された欄に記載されており、被告は原告に対して退職手当支払義務を負わないことを前提として経理上の処理をしていたこと及び<6>原告に対してはエクスパットに対して支給される子供の就学手当が支給されていたことの各事実が認められ、これらによれば、原告が、被告の就業規則及び退職年金規程が当然に適用される正規従業員と異なる地位を有していたことは明らかであり、また、被告が原告に対して退職手当支払義務を負わないとしても、これが格別不合理であるということもできない。
4 しかしながら、原告は、被告が退職手当支払義務を負わないエクスパットや被告本店派遣のフランス人スタッフそのものではなく、また、原告が被告就業規則における特別契約(嘱託)社員または退職年金規程におけるコンサルタントに該当することが一義的に明確であるとまではいえないのであるから、本件契約上被告が原告に対して退職手当支払義務を負うか否かは、これを肯定するにせよ否定するにせよ、本件契約書中において明確にされるのが通常の契約形態であると考えられる。従って、本件契約書中の「被告は原告に対し、退職の場合において何らの『indemnity』の支払義務を負わない。」との条項は、被告が原告に対して退職手当の支払義務を負わないことを明確にする趣旨で設けられた条項であると解するのが、本件契約の解釈として客観的合理性を有するとともに契約当事者の合理的意思にも合致するというべきであって、右条項により、原告及び被告は、被告が原告に対して退職手当支払義務を負わないことを合意したものと認めることができる。
原告は、右条項につき、被告在職中に原告がした業務に関して第三者が原告に対し訴訟を提起したとしても、これを理由として原告は被告に対し補償を求めないとの意味であると解釈した旨供述しているが、既に述べたところに照らし、原告の右供述は信用できない。
四 よって、その余の点につき判断するまでもなく、原告の請求には理由がないから、主文のとおり判決する。
(裁判官 山之内紀行)